ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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「お迎えがくる」の質感
「お迎えがくる」の質感

「お迎えがくる」という言い方は、少なくとも私の周辺では最近あまり耳にしないような気がします。ましてや子供たち世代にとっては「夕方になって保育園にママが来る」以外の用例がわからないだろうなあ。ちなみに最近の子供に「電話ボックスにべっとりと血糊が・・・」などという怪談噺をしても、そもそも「電話ボックスって何?」というオチになるそうです。我が家の小3次男も電話ボックスとは公衆電話の機械本体のことだと思っていました。まあ、四角いからね。

高野山の霊宝館で「国宝 阿弥陀聖衆来迎図」を拝見したことがあります。真言宗の根本仏は大日如来さまなので、阿弥陀如来信仰はメインストリームではないはずで、比叡山にあったのものが戦国時代に高野山に「流出した」という逸話があるらしい。こうした経緯を知らずとも、この作品にはなんともいえない凄味を感じます。霊宝館のHPでもざっくりした構図は確認できます(別の画像もネットで見つけましたが、著作権のことが分からないので転載は控えました)

http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/kaiga.html

この来迎図の凄味の源泉は、ズバリその質感です。阿弥陀さま信仰に熱心ではない私でも、「ああ、臨終の時には阿弥陀さまはこんな感じでお迎えにいらっしゃるのかもしれないなー」と納得してしまう「説得力」があるのです。雲に乗った阿弥陀さまの神々しい表情と、従っている聖衆のバランスがなんともいえない。いや、阿弥陀さまを熱心に信仰していればこうしたお姿が「見えて」、恐れを抱かずに往生できるのでしょう。ありがたいことだと思います。

是非実物をご覧いただきたいのですが、高野山でも数年おきにしか展示されないらしい。たまたま拝見した私は幸運だったことになります。
在家か?出家か?
在家か?出家か?

佛道精進を少しでも意識すると、どうしても出家者への「憧れ」が出てきます。「本格的に佛道を極めるためには必要なのではないか」。特に「宮本武蔵」の沢庵さまの雲水姿に憧れた者としては、やはりこれを意識しない訳にはいかない。

ちょっとお勉強です。出家の反対語は「在家」です。文字通り家にいる信者のこと。そして大乗佛教は「在家のための佛教」という捉え方をされることが多い。大雑把な歴史的経緯でいえば、出家者による修行によって解脱を目指してきた釈尊以来の佛教に対して、在家からのアンチテーゼとして生まれてきたのが大乗仏教。「大きな乗り物」とは、仏さまの慈悲の力によって一般人(つまり在家の者)も救われるべきだ、という意味で、大乗側は従来の在り方を「小乗」(自分だけを救おうとする態度)と呼びます。もちろんこれは蔑称なので、従来の皆さんは自分たち自身にこの用語は用いず、「上座部仏教」などという。逆に上座部側に言わせると「大乗仏教は釈尊伝統の仏教ではない」という反論になるわけです。そして、私の信心は弘法大師さまの真言宗。これは大乗仏教でもさらに「最終ランナー」とされる密教の系統になるのです。

本題に戻ります。私はもう40ン歳。妻子も仕事もしっかりござる。王国のプリンスの地位と妻子を置いて出家した釈尊の覚悟にはなかなかなれるものではありませんし、具体的にはいまから本格的な佛道修行に耐えて行くだけの体力的自信もない。寒さにもめっきり弱くなって、高野山宿坊での朝の勤行でもストーブ横に陣取ってしまいます(笑)。今はこう考えています。佛道精進の矜恃があれば、「出家か在家か」にはこだわらなくてもいいのではないか。在家信者として佛道に帰依するにはどういう道があるのか、これからの人生ではこれを考えたい。さらに、あわよくばこの境地に生きることを現代の日本人に提案できないか。ブログの副題「在家信者の心意気」はこれらをまとめて表現しているつもりです。

それでも時々思います。仏弟子のひとりとして何らかの形が取れるならば、それは是非欲しいところ。勝手な思い込みかもしれませんが「生前戒名」というのはちょっと方向性が違う気もする。「在家僧侶」「在家得度」のような形はないものでしょうか?いやいや、やはり僧侶とは出家するもの、こうした在り方は「存在の耐えられない矛盾」なのかなあ。
意思を持たないので、「歩き回る」
意思を持たないので、「歩き回る」

某日、iPS細胞関連のNHKテレビニュース。肝心の内容はどうにも覚えていないのですが(笑)、とにかくiPS細胞のおかげで「猿が歩き回れるようになりました」という。

ん?「歩けるようになった」のではないのか。では、人間の患者の場合に「回復して歩き回れるようになりました」とは?うん、言わないなあ。

その違いを考えると、基底には「猿には意思がない」「人間には意思がある」、だから無意味な徘徊を「歩き回る」と表現しているのだろうと思い当たりました。うーん、日本語って豊かで面白いなあ。しかし、猿の歩行には明確な意思がないと、誰が認定できるのでしょうか?
「不断の修行」の大切さ
「不断の修行」の大切さ

血糖値が上がっちゃったので、ウォーキングやスイムなどの有酸素運動に励んでいたのですが、今年の前半に「読む筋トレ」という本に出会ってからは腹筋などもやるように心がけています。この本は読者のモチベーションを上げることを意識したなかなかのスグレもの、まんまとハマってかれこれ半年もたつと、腹筋は確かに「硬く」なってきた。これは励みになります。それでも夜勤明けや飲み会が続いて数日でもトレーニングから離れると、筋肉は覿面にユルむのがコワイところです。

佛道修行もこれに似ているところがあるようです。師匠のT師は先日、「今年はサボっちゃったから、明らかに境地が落ちているのがわかるんだ。こんなことではいかんいかん」とコボすことしきり。私にしてみるととんでもない境地であることに変わりはないのですが。玉城康四郎博士も著作において、「悟り、などというものはちょっと油断するとすぐにわからなくなる」という趣旨のことを述べられていらっしゃった。もちろんこの境地も私には実感できないものですが、佛道の厳しさを垣間見て身の引き締る思いです。佛道とは生き続ける限り精進しなくてはいけないもの、いや、生きることが即ち佛道精進なのですね。
怨憎会苦~苦手な人間を受けとめようという気持ち
怨憎会苦~苦手な人間を受けとめようという気持ち

おんぞうえく=怨憎会苦。おお、私のPCでは一発で正確に変換しました。まさに仏教系四字熟語ですが、字面を見れば意味がわかるとしても、耳で聞いただけでは理解できない方も多いかもしれません。仏教の基礎「四苦八苦」のひとつ。釈尊はまさに鋭いところを突いていらっしゃる。

人間をやっていれば、そして社会との接触を絶たないかぎり人間関係には大きなストレスがついて回る。私にも「顔を見るだけでもイヤだ」「そばに来られるだけで落ち着かない」という人間はいます。しかもかなり身近だったりするから始末に負えない(笑)。

しかし、最近の心境は改善しているのです。「あ、いまのこれは『怨憎会苦』だな、釈尊の言われることは正しいなー」「イヤだ、っていう感情は色にするとやっぱりドス黒いのかなー」といった客観視ができるようになってきた。さらに「あんな態度を取ってくるには、この人なりの理由があるんだろうなあ」、「あんな言動は結局自分を貶めていることなのが分かってないんだな」という具合。まあいつもいつもうまく行くわけでもありませんが。

そして「生きとし生けるものが幸せでありますように」という慈悲の気持ち。こうして読むといかにも抹香臭いものではありますが、こうした「祈り」を真剣に行う時間が少しずつ持てるようになっている。佛道精進の成果だと思うのです。
ブログは立派な佛道修行
ブログは立派な佛道修行

このブログを始めてもうすぐ1ヶ月。アクセス数はちっとも増えませんが(笑)、書くことはますます楽しくなっています。

誰に課されたわけでもないのに毎日の更新を意識すると、キョロキョロと常に「ネタ探し」をしている自分に気がつきます。即ちこれは、「日常のあれこれをいつも佛道というフィルターで捉える」その訓練になっている。業務での出張、美味しいものとの出会い、新聞やテレビなどメディアの記事、苦手な人物とのあれこれ、それこそ森羅万象のすべてが「説法をしている」。そしてそれを受け止めるアンテナが自分に立ったことになるのです。たいへんにありがたいことです。

逆に言えば、いつの日か、こうした習慣が煩わしくなることもあるかもしれない。ま、その時は、それまで。このブログを止めるだけのこと、と思っています。
お寺の境内に桜がないわけ
お寺の境内に桜がないわけ

都会においても樹木や池などの舞台装置が現代人に癒しをもたらすお寺の境内ですが、桜が植わっていることは殆どないことに気がついていましたか?

「儚く散ってしまう桜は修行僧の精神集中の妨げになるから」という説明を聞いたことがあります。これが歴史的に正しいのかどうかは知りません。世の無常を悟るにはいい材料という気もしますが。しかし禅寺などでは紅葉は盛大に植えられています。あ、先日の高野山でも紅葉はとてもキレイだった。桜との違いがわからないなあ。
土地のパワーを感じること
土地のパワーを感じること

代表的な観音巡礼は日本に3ヶ所あります。西国、坂東、そして秩父です。前の2つが33ヶ所、そして秩父は34ヶ所あるので、あわせてちょうど100ヶ所です。

前2つはとてもひとつの地名では括れない広がりがありますが、秩父は違う。そして、この地に降り立つと独特の土地のパワーを感じます。これは「呪縛力」と言ってもいいかもしれません。盆地という地形だけでなく、「秩父夜祭り」「観音巡礼」などの歴史の熏習、そして人々の郷土愛もあるでしょう。

このような呪縛力を感じる土地はいろいろありますが、例えば「湘南」もそのひとつ。この地域に住んでいる人はたとえ勤務地が都心で通勤に時間がかかろうとも容易にそこを離れることはないような気がします。そういえば鎌倉には鶴岡八幡宮というこれまたパワーに溢れている神社があります。日本の呪縛力、それは土地の神様の力なのかもしれません。

こういう話を聞いたことがあります。屋根があるところを常に探しているホームレスたちも、なぜか神社を棲家にすることはないそうです。聞くと「神社はなにかコワイ」ということらしい。それに対して「お寺は暖かい」とか。慈悲の宗教の面目躍如たるところですが、こうした感覚はけっしてないがしろにできない。ホームレスではない私ですが、アンテナだけは常に研ぎすましていたい、と思っています。
豪華絢爛!ワクワクドキドキでクラクラする
豪華絢爛!ワクワクドキドキでクラクラする

前から欲しいと思っていたが、いささか高額であるために躊躇していた「岩波仏教辞典」をついに買いました。いやはや、「もっと早く買っておくべきだったかもしれない」と反省。とにかくワクワクドキドキものです。いわゆる学術本というよりは、初心者や教養レベルなので、仏教学を専門に学ぶ方にはまったく物足りないのでしょうが、生半可な知識しか持たない私には基本水準レベルの理解を助けてくれる好著。実は法蔵館の「仏教学辞典」も項目数を抑えつつ基本的な理解を助けてくれそうなものでかなり迷ったのですが、こちらには人名の項目がないために断念しました。

とにかく読み物として項目をパラパラ眺めているだけで面白くて仕方がない。「あ、あれはどう書いているのかな」という興味が次から次へと湧きあがって、いくら時間があっても終わらない。1ページ目から全部読んでみようかな。
ケチケチの快感と節約疲れ
ケチケチの快感と節約疲れ

iPhoneは私の生活においていまや「これがないと生きて行けない」ほどのアイテムになりました。メールチェック、ニュースチェック、天気予報、電車の時刻表、ブログの下書き、音楽・お経・CNNの聞き取り。そして小遣い帳、いやいや、それを超えた「資産管理」をしているのが「Active Money Pro」といアプリです。

単なる小遣い帳なら無料アプリがいろいろありますが、Active Money Proは800円、これはアプリとしてはかなり高額です。しかし、自分の資産を種類別に分類でき(財布現金、会社経費立替、クレジットカード、電子マネー、銀行口座など設定可能)、支出項目もライフスタイルに沿って設定できるので、私は「賽銭」という項目を立てています(笑)。また、毎月の予算に対する出費のペースをスピードメーターで表示するので、「おお、今月は速度超過だなあ」などがまた楽しい。

なによりも、これまではなんとなくダラダラと浪費していた自分のスタイルを「見える」ようにしたことで引き締めにつながっている。これは「食べたものをすべて記録することでダイエットに成功した」という岡田斗司夫氏の「レコーディングダイエット」の家計簿版なのです(参考:岡田斗司夫「いつまでもデブと思うなよ」)。つまり自らの物欲に「気づきの光をあてる」、これが意外と楽しいのです。

しかし、今月はこの「ダイエット」が機能しなくなっている。ここまで完全なスピードオーバーです。家計のネズミ捕りがいたら検挙されかねません。ん?もしかするとこれが世に云う「節約疲れ」?新聞などの経済記事でたまに見かける「節約疲れ」。これまではさっぱり実感できていなかったのですが、ようやく思い当たるのです。

今月の代表的な出費は「岩波仏教辞典」とiPhone入力用Bluetooth折りたたみ式キーボード。これ2つで1万6千円はやはりイタい。あ、両者ともこのブログで火がついた執筆欲が貪ったものではないか。うう。
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