ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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2010年、精進は進んだのか?
2010年、精進は進んだのか?

今年を振り返ります。

高野山には3回お参りに行くことができました。特に11月の参拝では、業務や人間関係で窒息しそうになっていた状況を変化させる気づきをいただき、大きな救いになりました。

従来からの勤行に加えて朝の瞑想も始めることができました。多分に我流であることから師匠には賛同を得ていませんが、自分なりに生活の句読点になっています。

毎月とはいきませんが高野山東京別院の写経会には参加しています。残念ながら阿字観瞑想指導にはほとんど行けませんでした。

講で続けていた坂東観音巡礼は、多くの仲間が今年で結願となりました。仕事などで閑却することが多かった私の参拝はここまで16ヶ寺。大きな宿題が残っています。四国には一回も足を運ぶ機会がありませんでした。

トシのせいか1年は本当に飛ぶように過ぎて行きますが、前半の出来事はさっぱり覚えていません。仕事でちょっとだけ関わったバンクーバー五輪、あれも今年のことだったのかあ。それだけボーッと過ごしてしまったということです。
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対象をダイレクトに認識すること
対象をダイレクトに認識すること

カメラを趣味にする人が陥る「スランプ」というのがあるそうです。それは「いつも風景・事象をカメラで切り取るという視点でばかり見ているのがイヤになる」ということらしい。常に趣味を意識できることはなかなか素晴らしいことだとも思いますが、こうした焦燥感も分からないこともない。

瞑想などの本を読むと「対象をダイレクトに認識せよ」という趣旨の記述を多く見かけます。「先入観を持たずにその時の感覚を大切にする」という訓練だと思いますが、なるほど、改めて意識してみると普段の私たちは対象を「ダイレクトに」認識していることは少ない。例えばコップというものをコップとして見る、タオル地の手触りをそのまま味わう、そうした瞬間には他のものに気をそらさずにそれだけに集中する。こうした習慣を心がけることで人生の味わいが変わってくるとすれば、それはなかなかに素晴らしい境地だと思うのです。少し意識してみようと思っています。
外国語脳スイッチのONとOFF
外国語脳スイッチのONとOFF

親に言われて小さい時から英語を継続的に「やらされて」育ちました。子供にとってはもちろん面白かろうはずもなかったのですが、今となってはそれが土台になっていたことを実感、大学受験だけでなくその後のキャリアでも大いに役立って、親には感謝の気持ちでいっぱいです。もちろん自分の子どもにもやらせているのですが、こちらでは「親の心子知らず」ということわざを痛感させられています(笑)。

34歳で東南アジアの某国に赴任、ここをベースにして4年間を過ごしました。内示から赴任までわずか2ヶ月だったこともあり、言葉はまったく使えないままの現地入り。もちろんオフィスの公用語は英語で、スタッフも英語使いを雇っていました。運転手さんとメイドさんとは「気持ちと身振りと気合でコミュニケーション」です。しかし4年間も生活していれば日常会話レベル以上のものはそれなりに覚えるもの。そこで興味深かったのが自分の脳の中で起こったことです。

それまでは日本語と英語しか知らなかったので、「外国語脳」はONとOFFで出来ていたような気分だった。あるいは「母国語脳」と「外国語脳」の切替パターンだけ、という感じ。そこに現れた第三の言語、すると頭は状況に応じて自然に3つを使い分けてくれるのです。これにはいささか感動しました。また、第二の外国語というライバル出現で焦ったのか、英語の実力がグッと深まって自然に単語が口から出てくることも多くなりました。これは日常的に英語を使う機会が増えたために上達した、という説明の方が自然かもしれませんが。

言葉というのは本当に不思議なものです。ある大使館員のお話。「20年ほど前に滞在していた国に所用で行く機会があったんです。そこでちょっとしたトラブルに巻き込まれたところ、忘れていたはずの現地語がワーッと口をついて出てきてくれたんです」。表層意識ではいなくなっていても、深層意識にはしっかり生き残っていたんですね。
オーラ、感じていますか?
オーラ、感じていますか?

「オーラを感じる」という表現は結構使うことがあるのではないでしょうか?例えば雑踏の中でタレントさんに出会えば、どうしても「光り輝いて」見えてしまう。滅多にありませんが、会社で社長とすれ違えばやはり気圧されるものがある。これが日常生活での「オーラ」と言えるかもしれません。

多くの仏像は後背(こうはい)を背負っていますし、キリスト教のイコンでも頭の周囲には円が描かれていることが多い。偶像崇拝をしないイスラム教では見かけないものですが、これは一般的には「オーラを表現したもの」とされます。そういえばビルマ(ミャンマー)のパゴダの仏像はこの後背がクリスマスツリー風電飾になっていて、時折パーっと光るのですが、それはいかにも仏さまが「喜んでいらっしゃる」ように見えました。日本風仏像のあじわいとは大いに違っていて戸惑ったものです。

まったく異なった文化を背景としながらこのように似通った形状が出てくるということは、これは人類に普遍のモノである証左かな、とも思いますが、しかし現実の人間でこれを「目撃」したことはないです。冒頭のタレントや社長の場合もやはり別ものだし。これは私の「霊感」の乏さなのか、いやいや、未だに聖人にお会いできていないご縁の薄さを嘆くべきなのかもしれません。

筆者のお願い:タイトルの「オーラ、感じていますか?」は、どうか長嶋茂雄さんの「セコム、してますか?」風にお読みください(笑)。
「信仰する宗教は仏教です」
「信仰する宗教は仏教です」

バリバリの佛道ブログを毎日執筆、信心まっしぐら系のいまの私ですが、タイトルにあるような「宣言」をすることには戸惑いも残ります。というか、通常の生活において宗教観を他人に聞いたり、自ら披露する機会は、そもそもない。就職でも聞いちゃいかんし。外国の入国審査書式で尋ねられてハタと戸惑う、なんて日本人が多いと思われます。

たとえ自らの信心には揺らぎがなくても、現代の日本において「宗教」「信仰」という用語には一定の抵抗感、アレルギー、バイアスがあります。根底にはオウム真理教事件の衝撃や、時折見聞する新興宗教にハマっている方のエピソードへの嫌悪感などがあるのではないか。「シューキョーとは何やら得体が知れず、恐ろしいもの。まっとうな人間が関わってはいけないもの」という空気が醸成されている。私も用語として仏教ではなく「佛道」、信仰でなく「信心」というタームを使っています。表層意識としてはあまりにベタな用語使いから半歩ずれている感覚がカッコいいからなのですが、根底には同じタブー感があるのかもしれません。
「文は人なり」で心配された件
「文は人なり」で心配された件

ブログっていうのは「頼まれたわけでもないのに」「せっせと毎日書き続け」「何を書いてもいい」ということなので、思うがままにネタを転がしているとまさに人格そのものが露出するようです。なかなかコワイことかもしれない。

12月16日付「ブログは立派な佛道修行」にも書いたように、いまはブログを書くことが無闇に楽しく、見聞するあれこれをすべてネタとして吟味している状態です。するとどうしても「思考が先鋭化する」傾向が出るようで、親しい方面から「すべてが佛道に片寄りすぎているのでは?会社や家庭は大丈夫か」との声が上がってきました。うーん、大丈夫かな?心配かけてすみません。

冷静に見つめなおすと、2年前に躓いちゃった危機からここまで立ち直った原動力はやはり四国遍路と佛道信心なのです。そして、会社や家庭の外にこうした別世界を持つことは純粋に「人生の幅」につながっている。まあ普通ならば山登りなどの趣味の世界がこれにあたるのかもしれませんが、私の場合は佛道だった、ということです。バランスに留意しながら続けていきたいです。まあ、「呑む・打つ・買う」よりは・・・。

心配かけてすみません。あ、しかもブログのネタにしちゃいました。重ね重ね申し訳ないです。
現代版運慶仏師の出現を待つ
現代版運慶仏師の出現を待つ

運慶・快慶といえば鎌倉時代の代表的仏師、特に運慶は日本仏教美術史の最重要人物でしょう。「仏像ブーム」には距離をおく私ですが、運慶仏師だけは別。その作品にはいつも溜息、うっとりとさせられます。

このほど発売された別冊太陽の運慶特集も素晴らしい出来栄えでした。作品解説だけでなく、海外流出直前に真如苑が落札した大日如来像の顛末、さらに参拝ガイドなど、至れり尽くせりです。紙媒体としての雑誌文化は大きな曲がり角を迎えているのかもしれませんが、こうした大判本で写真の素晴らしさに触れると、まだまだ雑誌にはパワーがあると感じます。是非本屋さんで手に取ってみてください。

いよいよ1月からは横浜の金沢文庫で「特別展 運慶」が始まります。「太陽」の表紙になった円成寺の大日如来さまを関東で拝めるありがたいチャンスです(期間中展示変更あり)。余談ですが、こうした美術館では、他の観客の前で仏さまに合掌して礼拝することにいまだに抵抗感があります。高野山の霊宝館が限界線、上野あたりではなかなか・・・。

ブログについてくる広告で「リアル仏像」なるものがあることも知りました。上記の円成寺の大日如来さまの複製もあるようです。ちょっと惹かれるものがあります。

運慶仏師から800年。神々しさと力強さを兼ね備えたあの素晴らしい仏さまたちを超えるものは見当たらないようで、なんとも残念です。出てこい、現代の運慶仏師!
社会儀礼としての「アーメン」
社会儀礼としての「アーメン」

親族のカトリック教会での葬儀から思ったことの続きです。当然葬儀はミサという形式で進行するので、こちらは積極的に「参加する」ことを求められる。入口では「葬儀のしおり」を渡され、そこには台本や賛美歌の楽譜も。こちらとしては戸惑うばかりですが、親族の葬儀ですから参加しないという選択肢は、ない。当たり前のこととして社会儀礼の範囲から外れないように振舞うのですが、それでも賛美歌と「アーメン」にはなんとも同調できなかったですね。故人を送るために心をこめて祈る、それでいいのだと思いますが。そういえば創価学会では厳格に他宗教の行事や施設を「拒否する」と聞いたことがあります(用語の使い方が違っていたらすみません)。神社の鳥居もくぐらない、とか。お付き合いなどで困ることも多いのではないかなあ。

お寺の葬儀では参列者はお経を唱えないのが普通なので、どうしても「参加感覚」は希薄です。参列者にお経本を手渡して「ではご一緒に」ってことだったら雰囲気が変わりますねえ。キリスト教信者の方はやっぱり困るだろうな~。
毎週集まることの素晴らしさ
毎週集まることの素晴らしさ

親族の葬儀がカトリックの教会でありました。故人は36年前にカトリックの洗礼を受けていて、改めて見回してみると私の周囲にはカトリックの信者さんが多いのです。大学の神学部に入り直して神父さまになった友人もいて、彼は故人とも親しかったので、今回の葬儀の司式の一員にもなってくれました(用語が間違っていたらスミマセン)。信仰して通っていた教会で親しかった神父さまたちや信者さん仲間に見送っていただく葬儀というのは、それはそれは素晴らしいものでした。

ごく卑近な見聞からの物言いになりますが、現代の東京にあって毎週信者が集まって祈りを捧げるということを律儀に守っているキリスト教の教会というのは、なかなかに稀有な存在かもしれません(もちろん毎週通う方は限られていて「幽霊信者」さんも多いのでしょうが)。いや、待てよ。創価学会さんは頻繁にお題目や勉強会をやっているのか。そういえば高輪には仏教系の新興宗教さんがあって、毎週自家用車がわんさかと集まっているゾ。なんだ、「信仰の確認」に熱心でないのは既成仏教の方なのか。

ここでは「葬式仏教に安住した既存教団のありかたは堕落だ」という論旨もあり得ますが、「家の宗教」と「個人の信仰」の違いを見ることができると思います。「家が真言宗だからお葬式も自動的に」という人には毎週参集する祈りの場は不必要、いや、かえって鬱陶しいだけでしょう。しかし個人としての信心が芽生えていれば、毎週仲間で集まることは本当に素晴らしくありがたいことになる。つまり「個人としての宗教」に出会っているかどうかです。

私の佛道については、「自己紹介」カテゴリの「佛道との出会い」でも書いたように、やはり個人として「出会った」ことがきっかけで、「家の宗教」ではなかった。だから「毎週参集するキリスト教会のあり方」が羨ましく見えているのです。かといって「では学会さんへ」という選択肢はないようです。
血糖値サマ、どうかお手柔らかに
血糖値サマ、どうかお手柔らかに

今年の人間ドックの結果が来ました。調子に乗って「上昇ありがとう」なんてブログに書いたせいでしょうか、数年来安定していたヘモグロビンa1cの値がガツンと上昇していて、かなりショックを受けました。ちょうどストレスが頂点に達した直後の検査だったこと、今年からすっかり酒に強くなってしまったこと、7月から薬を替えたこと、この3点が思い当たるところです。逆から見ると、最近の水泳では持久力がついていた、腹筋運動も継続していて身体全体の筋肉量が増えた感覚があった、それなのに・・・という気分でもあります。とにかく今は弱気の虫。「長生きできないかもね」とカミさんにコボすなどしています。しかしながら会社で診てもらっている医者センセイは「薬の戦略が違っていました、スミマセン」としながらも、本人ほどは深刻に受け止めていないようです。

仕方ない、ついに断酒か。元々酒は強くもないし、好きでもなかった。しかし日本のサラリーマン文化では必需品であることも事実です。「病気」と「佛道戒律」、宴席のみなさまにはこの2点を「酒の肴」にしてもらうしかなさそうです。酒を抜くことで精神とサラリーマン生活にどんな変化が訪れるのか、ブログでも報告して行くつもりです。
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