ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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在家か?出家か?
在家か?出家か?

佛道精進を少しでも意識すると、どうしても出家者への「憧れ」が出てきます。「本格的に佛道を極めるためには必要なのではないか」。特に「宮本武蔵」の沢庵さまの雲水姿に憧れた者としては、やはりこれを意識しない訳にはいかない。

ちょっとお勉強です。出家の反対語は「在家」です。文字通り家にいる信者のこと。そして大乗佛教は「在家のための佛教」という捉え方をされることが多い。大雑把な歴史的経緯でいえば、出家者による修行によって解脱を目指してきた釈尊以来の佛教に対して、在家からのアンチテーゼとして生まれてきたのが大乗仏教。「大きな乗り物」とは、仏さまの慈悲の力によって一般人(つまり在家の者)も救われるべきだ、という意味で、大乗側は従来の在り方を「小乗」(自分だけを救おうとする態度)と呼びます。もちろんこれは蔑称なので、従来の皆さんは自分たち自身にこの用語は用いず、「上座部仏教」などという。逆に上座部側に言わせると「大乗仏教は釈尊伝統の仏教ではない」という反論になるわけです。そして、私の信心は弘法大師さまの真言宗。これは大乗仏教でもさらに「最終ランナー」とされる密教の系統になるのです。

本題に戻ります。私はもう40ン歳。妻子も仕事もしっかりござる。王国のプリンスの地位と妻子を置いて出家した釈尊の覚悟にはなかなかなれるものではありませんし、具体的にはいまから本格的な佛道修行に耐えて行くだけの体力的自信もない。寒さにもめっきり弱くなって、高野山宿坊での朝の勤行でもストーブ横に陣取ってしまいます(笑)。今はこう考えています。佛道精進の矜恃があれば、「出家か在家か」にはこだわらなくてもいいのではないか。在家信者として佛道に帰依するにはどういう道があるのか、これからの人生ではこれを考えたい。さらに、あわよくばこの境地に生きることを現代の日本人に提案できないか。ブログの副題「在家信者の心意気」はこれらをまとめて表現しているつもりです。

それでも時々思います。仏弟子のひとりとして何らかの形が取れるならば、それは是非欲しいところ。勝手な思い込みかもしれませんが「生前戒名」というのはちょっと方向性が違う気もする。「在家僧侶」「在家得度」のような形はないものでしょうか?いやいや、やはり僧侶とは出家するもの、こうした在り方は「存在の耐えられない矛盾」なのかなあ。
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