ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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お遍路体験記の傑作です
お遍路体験記の傑作です

宮田珠己の「だいたい四国八十八ケ所」をあっという間に読み終えました。この人は東海林さだおや椎名誠風ライトエッセイの名手です。ちなみに男性。

例えばこんな調子。著者はお遍路で宿坊に泊まる魅力のひとつに朝の勤行があるとして、読経とキリスト教の賛美歌を比べたりします。「(前略)お経のほうは神秘的という点では同じにしても、それ以外はまったく逆に、没入すればするほど、意識は研ぎ澄まされるどころかみるみるどうでもよくなって、自我、自意識を持っていることすら面倒くさくなっていくというか、簡単に言えば眠くなってくるのであって、実に無責任に心地いいのだった。たまに朝の勤行に出るのが面倒だから宿坊に泊まらないという人があるが、実にもったいない話である」

このように著者は意識してお気軽なお遍路を続けるのですが、地形や風景の観察眼には鋭いものがあり、翻って私はずいぶんボーッと四国を歩いていたんだなあ、と反省させられました。宮田氏はかなり歩くことが好きな方だとお見受けします。

これだけならライトエッセイ風お遍路体験記に過ぎないのですが、それを超えて随所でハッとさせられる部分もありました。例えば高知の東洋町の陽射しにチベットを感じてしまうトコロなどはなかなか痛快です。また、若い野宿遍路さんの体験談を聞いて、日程の関係から自分が道中で飛ばしてしまった部分について思うくだり。「野宿で回るのと、私のように民宿を繋いで歩くのとでは、見える景色はまるで違うのだった。(中略)私は、未踏破問題に頭を使うのが、バカらしくなった」

装備品やマメ対策、道に迷いそうになった体験談、さらに帯には全ルートの高低図まであって、歩き遍路をやった人ならではの実用的なアドバイスも満載。数えてみると「お遍路記録」を10冊近く読み散らかしてきた私ですが、この本と「四国巡礼葛藤記」の2冊がベスト争いです。

ああ、中断したままの四国遍路、無性に行きたくなってきました。
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殺処分のつらさ
殺処分のつらさ

去年の口蹄疫に続き、今度は鳥インフルエンザが各地で猛威です。被害に遭われた農家の方、そして直接被害を受けなくても業務に影響を受けている多くの方々の心痛はいかばかりか、と思います。

それだけでも憂鬱なこのニュース、さらに不愉快なのは「殺処分」という救いようのない用語です。感染拡大を防ぐために「殺す処分を選択する」わけですが、それに従事する農家の方、役所関係の方、自衛隊の方もたいへんつらい思いをしているのではないでしょうか?

仏教の戒律にはさまざまなものがあり、上座部仏教の出家者には、なんと250も課せられています。また小生の信心する真言宗には「十善戒」があり、在家用の勤行次第にも載っている。つまりは「在家の信者もこれを守りなさい」ってことなんでしょうが、この冒頭が「不殺生戒」です。ちなみにこの十善戒には「不飲酒戒」(ふおんじゅかい)はないのですが・・・。

ここで考えます。もし私が宮崎県の職員で、業務としてこの殺処分を命じられたとしたら、「宗教上の理由で殺生はできません」と言えるのか?まず日本社会で給料取りをやっていたら無理な「宣言」だろうな。「あいつ、ナニ言ってやがる」です。県職員と僧職を兼務していて、普段から肉食をしないことが周知されていればOKかなあ、なんてあまり意味のない空想ですね。

そういえばかつて同業他社にベジタリアンのアメリカ人さんがいて、宴会などでは食べるモノがなかったようです。上司(日本人)も「あいつを連れて行っても困るんだよな」と苦い顔です。当時の私は「彼のそれって宗教なんですか?」と無邪気に聞いていたのですが、上司さんも「わからない」とのこと。今にして思うといささか不躾な質問ですし、「では、そもそも『宗教』って何?」という根源的な問題を含んでいましたね、この質問は。今の私なら口にしないセリフです。
(事務連絡)
(事務連絡)
更新がすっかり滞っていますが、単なるネタ不足によるもので、本人はいたって元気に過ごしております。このブログも細々と続けるつもりでおりますので、引き続きよろしくお願いいたします。
遥かなり、チベット
遥かなり、チベット

新年になってからあれよあれよとチベット仏教とのご縁が深まっています。もちろん冷静に見ればこうした「流れ」は、芋づる式に書籍のはしごをするなどの自分の行動による部分が大きいのですが、本人にしてみるとまるで「呼ばれている」かのような気分です。

仏教の歴史から見るとチベット仏教は「密教」の系譜。「仏教の最終ランナー」とも呼ばれ、私が信心する真言宗と同じ系列にあたります。一見するとその仏像やシンボルの色彩はかなり異質な印象ですが、最近の私は大いにシンパシーを感じています。

きっかけはネットで書評を見かけたことから購入した「Happiness 幸福の探求」です。この本はフランス人ながらチベット仏教に帰依、ダライ・ラマ法王のもとで活躍しているマチウ・リカール氏によるもので、「幸せは心の内に見つける」「慈悲の心を育てよ」ということを丁寧に説いています(私が書くとなんとも陳腐で安っぽいものになりますが)。そう、幸せは遠くにあるものではない、読了してからジワジワと「効いてくる」本です。これからも繰り返しじっくり味わうことになるでしょう。確かにこれは仏教の教えのひとつの側面です。

そういえば高校生の時にはどこかの「チベット展」で買い求めた幻想的なポタラ宮のポスターを自室の壁に貼っていたものです。貼っていたことすらまったく忘れていたのですが、あれはどういう気分からだったのだろう?ちょっとヘンな高校生だったなあ、やっぱり。

東南アジア駐在時代には業務でブータンとネパールに行く機会もありました。もちろん業務のテーマは仏教ではなかったのですが、現地の人々の文化・生活・人生観の基底に仏教が根をおろしていることはすぐにわかります。そのなんともいえなエキゾチックな魅力に惹かれました。ブータンでは布に描いた「タンカ」(仏画)まで購入、額縁を作って今も自宅の玄関に飾っています。当時、友人はブータンについて「あの国では魂が入れ替わることがおきるそうですよ」と冗談めかして教えてくれたものですが、あながちジョークともいえない気がしています。

外見上の肌合いの違いからいささかとりつきにくい印象のチベット仏教ですが、書店を見直してみると関連書籍もかなり出版されていて、興味を持つ日本人も多いことがうかがえます。そして、こうした本の多くは教理をたいへん解りやすく説いているのです。ん?日本古来の仏教書籍の世界では、高僧による説教本は多いが、教理の部分ではかなり分が悪いぞ。「源氏物語は原文よりも英訳の方がわかりやすい」って感覚に通じる気もしています。
同時多発タイガーマスク
同時多発タイガーマスク

きのうも各地でタイガーマスクが出現しました。年末からの活躍の数々、もうどこのことだかいちいち覚えていられなくなってきました(笑)。超人的な奮闘ぶりです、いつ眠っているのか?

きっかけになったのは前橋でランドセル10個が置かれていた件だったと記憶しています。子どもが被害にあう事件が多いという世相を背景に、ランドセル現物にリボンをかけて置いてゆくという行為の素朴さ、ほとんどの人が忘れかけていた「伊達直人」という名前を使った意外性で私にも強く印象に残っていたのですが、「模倣サン」(さすがに模倣犯とは書けませんね)がここまでたくさん出てくるとは想像していませんでした。こうした「ちょっといいニュース」に心を動かさるのはみなさん同じなのだなあ、と思います。

仏教ではこうした行為を「利他行」として尊びます。大乗仏教者が行うべき修行をまとめた「六波羅蜜」の筆頭も「布施」です。特に名前を名乗らず見返りを期待しないことが肝要なのは言うまでもありません。

しかしへそ曲がりはこうとも考えます。こうした行動への賛同からとは承知していますが、どこでも一様に「伊達直人」を名乗っているのは段々面白くなくなってきました。お次は「菅直人」を名乗る「愉快犯」でも出てこないものでしょうか?
死生観(その1)
死生観(その1)

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」。これは曹洞宗の宗祖・道元禅師「修証義」の冒頭部分です。佛道に帰依することを公言している私。生と死をどう考えるのか、折に触れて書いてみることにしました。死を考えるのは生を考えることです。一応タイトルは「第1回」としましたが、2回目以降が続くかどうかはわかりません。

朝日新聞社の今田俊さんが書いた「無菌室ふたりぽっち」を読みました。白血病に冒された新聞社勤務の30代男性の闘病記です。もちろん「生還」したから本が出版されているのですが、ここにはもうひとり、ほぼ同じ時期に同じ病気に罹って亡くなった若い同僚カメラマンも登場します。「ふたりぽっち」というタイトルはこのカメラマンの顛末を意識したものです。余談ですが、新聞記者さんによる書籍というのは、その簡潔な文章のリズム感が心地よく、読みやすいことが多いと思います。

幸い命にかかわるような大病をしていない私、これまでは闘病記というものをあまり読んだことがなかった。そして闘病記が「面白い」のは(人の病気を愉しんでいるわけではないのでこの表現には誤解なきように)、病気に罹ることによって筆者に突き付けられた死生観(人生観)が生々しく描かれているためだ、と気がついた次第。しかもこの本の著者はほぼ同年代で職業も似通っているだけに、感情移入はさらに容易でした。白血病や骨髄バンクの最新事情についても大いに勉強になりました。

私は現在40代後半。そろそろ同級生の訃報をぽつりぽつりと聞く年齢になっていますが、まだまだ「自分の死」については実感をしていません。佛道を学び、個人の肉体の消滅を超えた「大いなるいのち」のありようを少し意識できるようになってきましたが、それでも、もし余命が宣告されるような事態に陥った場合、「生」への執着はものすごいことになるのではないか、そのことがとても「怖い」と思っています。もし佛道への帰依によってその執着が変わるものなら、それは大変ありがたいことです。

「無菌室ふたりぽっち」のあとがきの中で著者は「『病気になって人生観が変わったか』とよく聞かれます。答えは『変わらない』」としています。しかし退院後には徒歩での四国遍路を始めているようで、本人は意識していないのかもしれませんが人生観がまったく変わらなかったとは言い切れないのではないかなー。四国遍路は「同行二人」、本のタイトルの「ふたりぽっち」に通じるものがあって、著者もそこをほのめかしています。

うう、やはり全然まとまらないや。容易にまとまるはずもない遠大なテーマであることはよくわかりました。
気象予報士の心意気
気象予報士の心意気

1月1日の早朝、何気なくNHKテレビで天気予報を見ていたら、お天気キャスターの南利幸オヂさんが開口一番、「あけましておめでとうございます。本年もみなさまが気象災害に遭わないよう詳細な気象情報をお伝えしていきますので本年もよろしくお願いいたします」と述べたので、ちょっと感動してしまいました。なるほど、「天災は忘れたころにやってくる」タイプのこちらとしては「雨が降るなら傘を持っていかにゃならん」くらいの意識で見ている天気予報ですが、作っている方は「みなさまが気象災害に遭わないように」という心意気であたっていたのだなあ。「受け手以上の意識をもってことにあたる」、これこそが「プロ意識」というものでしょう。

ちなみにこの南利幸サン、失礼ながらパッと見た印象は典型的なオヂさんなんですが、発声と口跡がいいのでとっても聴きやすい。しかも冒頭のシビれるこの一言です、すっかり好きになってしまいました。こんなカッコいいオヂになりたいな、って、ひょっとしたら私の方が年上?
高野山は佛道のテーマパーク
高野山は佛道のテーマパーク

初めて高野山にお参りしたのは2007年4月のことでした。事前に師匠からお参りの作法やポイントを伝授していただいたほか、本格的な念珠や理趣経の全文が載った経本も専門店で購入して行きました。あ、「高野山参与会」にもギリギリで入会していったんだ。「参与会」は高野山布教のスポンサー制度ともいうべきもので、年会費を払うと専用の輪袈裟がいただけるほか、「高野山教報」という機関紙を送っていただけます。この輪袈裟は高野山では「天下御免の輪袈裟」とも言われるもので、総本山金剛峯寺や根本大塔、そして霊宝館などの参拝が無料になるほか、金剛峯寺では参拝記念として線香までいただけます。初参拝にあたってはこうした特典が欲しいというよりも、「正式な形でお参りしたい」という気持ちでいっぱいでした。

南海電車で極楽橋駅へ。ここででケーブルカーに乗り換えるのですが、その駅そばの橋の袂にお地蔵さまがいらっしゃったり、高野山のバスルートの途中でも大きなお地蔵さまにお出迎えいただいたり、、想像してはいたものの、とにかく街全体が佛道一色なのに感激しました。そう、高野山は町全体が佛道のテーマパークなのです。

日本人にとってもかなりアクセスが面倒な場所にあるにもかかわらず外国人の姿が多いことにも感心しました。これは「世界遺産登録がなされたこと」、そして「ミシュランガイドが三ツ星を付けたこと」の影響なのでしょう。「外国人が想像するエキゾチックな日本をまさに具現しているのが高野山」という記事も読んだことがあります。ゲイシャフジヤマニッポンをイメージしている外国人観光客さんにしてみれば東京はいうに及ばず京都だって「旅行パンフレットが切り取っている部分の外」は普通の先端都市、欧米との違いはなかなかわからないでしょうから。

ビートたけしの番組と同じように、私は「旅行で訪れることがきっかけになって佛道に触れる人がひとりでも増えればありがたいことだ」と単純に思ってしまうのですが、先日お話を伺った真言宗の高僧の方はこうした高野山の現状について「信心が伴っていない観光客ばかり増えることには頭を痛めているんですよ」と明かしてくださいました。うーん、所詮私の考え方は部外者の気楽な立場からのものにすぎないのでしょうか。
ビートたけしに教えていただく佛道
ビートたけしに教えていただく佛道

1月3日にNTV系で放送した「たけしの教科書に載らない日本人の謎」は佛道の特集で、「たけし、高野山に初めてのお参り」がウリの番組でした。2時間半もの長さの放送にそのままお付き合いする気はなかったのですが、録画しておいたものをざっと拝見。「正月のテレビ、特にバラエティには見たいものがまったくない」という声はよく聞くものですし、実際のところ私も「見たい」と思ったのはこれだけでした。よく考えるてみると、正月に限らずバラエティ番組ってものは見ていないということですが。

元NHKの池上彰さんが引っ張りだこになっていることが象徴的ですが、最近はこうした「教養の香りのするバラエティ」というジャンルがあるようです。それでもやはり根っこはバラエティ、見慣れていないこともあって「番組の文法」に追いつけないのがつらいところで、スタジオで大仰にうなずいたりするタレントさんのわざとらしさなどが気になって仕方がなかったです。さらに芸人さんが空海や最澄に扮するなどしているのですが、番組のベースはかなり専門的なもので、「毘沙門天と多聞天が同じ」という知識には「へぇー」とうならされました。それだけに「視聴者さんは正月早々からこのハードな内容に延々と付き合うのかなー」という興味もあったのですが、関東地区での視聴率は12.7%。三が日で在宅率が高いとはいえ、なかなかのものです。こうした番組をきっかけに仏像や佛道にご縁ができる人が増えるならばそれはありがたいことだと思います。

驚かされたのは通常は撮影が禁じられている高野山奥の院の御廟橋の先までカメラが入っていたことです。友人が雑誌の取材をした際にもここは許可がどうしても出なかったとのことでしたし。「特別に許されて」というナレーションはありましたが、ウラ話を聞きたいなあ。最後まで見て私が気がついた突っ込みどころはひとつだけ。「高野山・壇上伽藍には金堂を始め、根本大塔、西塔などが配され」としているくだりで、御影堂の映像に「壇上伽藍 西塔」とスーパーされていました。うーん、残念!
それは宗教的に公正な表現ですか?
それは宗教的に公正な表現ですか?

最近年末に訪れていないのでデータが古いかもしれませんが、東京ディズニーランドのアトラクションで気になったこと。「イッツ・ア・スモールワールド」(学生時代にアルバイトをしていたが、その際仲間うちでは『イッツモ』と呼んでいたものです)は世界の様々な地域の子供の人形が「世界はひとつだよ」と謳いあげるなかなか楽しいアトラクション。さらに年末が近づくと毎年スペシャルバージョンに衣替えするわけですが、ここで繰り返されるのが「メリーXマス」の羅列です。しかし、世界中の子供たちが一様にクリスマスを祝うわけではないのは自明の理。確かに「世界はひとつ」だろうが、それは文化・宗教の多様性を尊重した上でのお題目でしょう。こうした神経がなんともアメリカ的、ディズニー的な気が…。911同時多発テロ以降、年末カード交換の賀詞も「メリーXマス」ではなく「Happy Holidays」と書く人が増えたというではないですか。

この例は宗教上の問題ですが、このように「用語の使い方に敏感になりましょう」という運動を「ポリティカリーコレクト」(政治的公正運動、とでも訳すのかな)と言います。例えば日本で「看護婦」を「看護師」と言い換えるようになったのもこれ。英語でも「チェアマン」は「チェアパーソン」、「ファイアーマン」は「ファイアーファイター」、「ブラインドタッチ」は「タッチタイピング」と言い換えられるようです。この運動には批判もあり、「言葉狩りだ」「言い換えるだけで実体が伴わないことには仕方がない」などの声も。日本語版も出た「政治的に正しいおとぎ話」では「白雪姫と7人の小人」を「白雪姫と7人の垂直方向に試練を受けている人々」としているらしいのですが、これはもちろんやり過ぎを皮肉っているものですね。「マンホール」だって「パーソンホール」とは呼びにくいし。何事も杓子定規は避けてほどほどがよろしいようですが、それでも、当初は違和感がある言い換えも慣れればどうということもない。やはり「どう見ても不公正な言い回し」は避けるのが人類の叡智、ってものでしょう。
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