ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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佛教徒の燻製?
佛教徒の燻製?

「抹香臭い」という言葉は、「お説教っぽくて、辛気臭くて、鬱陶しい」というマイナスの意味で使われるようですが、佛道精進の立場からするとこのニュアンスには首肯しかねますね。師匠のT師の傍に行くとほんわりとお香の匂いがして、まさに「抹香臭い」んですが、お線香、いい匂いじゃないですか。法を説く言葉、ありがたいじゃないですか。

仏教用語に「熏習」というものがあります。「くんじゅう」と読むもので、お香の香りが衣に染みつくように、日頃の行いや思いが阿頼耶識(あるいは真如)にとどまる、ということらしいです。阿頼耶識は(以前にも出た)唯識の用語。興味のある方はお勉強いただきたいのですが、俗に「唯識三年、倶舎八年」といわれるほど難解な教学です。「真如」とは「あるがままのもの」、やはり難しくなりますが「真理」と理解していいのかもしれません。ちなみに「真如苑」というのは密教系の新興宗教だからこの名前なんですね。

本格的な佛道の勉強をしていない私の解説はこの程度なのですが、今はこんな風に思っています。いつも佛さまの存在を身近に感じ、それをありがたいと思い、清らかな精神を保つという佛教徒としてのありようは、次第次第に「自分」(阿頼耶識とか真如なのかな?)のなかに染みこんでゆく。反対に、汚れた気持ちはやはりどうしてもマイナスに作用する。つまり毎日の生活は仏教徒の燻製をじっくりと作製しているようなものである、と。

死後の世界はあるのか?霊は実在するのかについて釈尊はお答えにならなかったのですが(これを「無記」という)、たとえば高野山奥之院で確かに「感じる」ことができる霊気、あれはいにしえからの人々が聖地高野山を拝んできた「念」が熏習した、染みついたものであるのかもしれない。染みついた「念」を感じ取ってしまう人は、それを「霊魂」という単語で呼ぶのかもしれない。そして、仏像は拝まれるから尊くなるのだ、と。だから開眼供養をして魂を入れないといけないし、石材屋さんの店先に並んでいるのは、佛さまの形をした単なる石にすぎないのです。

今回はすっかり抹香臭いお話になりました。
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