ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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天上天下唯我独尊。では、「無我」は?
天上天下唯我独尊。では、「無我」は?

珍しく小難しい話です。先日の護国寺参拝の際には、右手で上を指した「誕生仏」に甘茶をかけさせていただく機会がありました。言うまでもなくこのポーズは、生まれたばかりの釈尊が七歩あるいて言ったという「天上天下唯我独尊」にちなんでいます。たいていの宗教には教祖誕生にまつわる奇跡譚が存在するでしょうから、いちいち目くじらを立てることはない、ということはあります。しかし普通の感覚からすると「いくら釈尊とはいえ、生まれたばかりで『とにかく自分だけが尊い』とは偉そうだ」という違和感はありますよね。さらに。仏教の「法」=教えを端的に表したという「四法印」は「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」。初期仏教の教説をかじると3つはなんとなく分かったような気にもなるのですが、「無我」はなかなか手ごわい。「釈尊はブラフマン(梵)とアートマン(我)が同一であるとするインド哲学の『梵我一如』に対するアンチテーゼを提示した」という解釈もあるようです。こうなると「我」を、現代人が理解している「自我」と同一であるとする前提からして間違っていることになります。つまり釈尊の「唯我独尊」は「自分が偉い」と言っているわけではない、と。

自分なりに解釈しているところを浅薄なままに書いておきます(汗)。「我」とはつまり自分という枠組み(自我)に執着すること=「我執」であり、「諸法無我」はこれを否定せよ、との教えなのではないか。現代人に限らずいつの時代でも、ヒトが「自我の殻を破る」のは並大抵のことではないでしょうが。そして「唯我独尊」は、その自我を捨て去ったところに現れる絶対的な境地が、実は最終的にこの現在の「仮の自我」にもつながっている、ということを示している。そんなことを夢想するわけです。ああ、哲学的思考が基礎からなってないっすね。ちっともまとまらないや。大学の専攻が東洋哲学だったことは私の最高機密なんです。

もっと教理の勉強をしないとダメだな。
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