ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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恐山の佛道
恐山の佛道

南直哉「恐山」を読みました。私が恐山に行ったのは中学校の修学旅行。旅程は東北を周遊するものでしたが、仏教系ではない普通の東京の私立中学校がわざわざ下北半島のあんなところまで足を伸ばすとは、今思い返してもなんとも不思議な企画だったものです。しかしこの修学旅行で断トツの思い出になっているのは十和田湖の紅葉と、やはりこの恐山。実にいい経験だったと感謝しています。

著者の南直哉さんは禅宗系の僧侶作家さん。今の人気ぶりは臨済宗の玄侑宗久さんと双璧と言えるでしょう。しかし、著作のあまりに理屈っぽい印象から、私はこれまで南さんのいい読者ではなかったのでした。宗派は曹洞宗、あの道元の永平寺で20年も修行され、今は恐山の菩提寺の住職代理ということです。南さんも書いているのですが、「只管打坐」の曹洞宗と「霊場・恐山」は、仏教界でも対極にあると言える存在。これが結びついちゃっているところが、仏教の懐の深さでもあり、悪く言えば融通無碍でいい加減なところかもしれない(この本によると、一時荒廃した恐山を復興したのが曹洞宗の僧侶だった、ということらしい)

30年以上も前に1回訪れただけの私ですが、この本で恐山は今でも多くの参拝者を集めていると知りました。理由の考察などは本書に詳しいところで簡単にまとめられませんが、多くの人が「そこへ行けば亡くなった人と会える、そして供養ができる」と信じているなら、これは途轍もなく素晴らしいこと。もちろんそこには佛道の存在が欠かせないのでしょうが、やはり恐山の魅力はそれだけではないようです。本書でも南さんが指摘します。「いずれにせよ、恐山という場所を人為的に仕切る、というのは全く無駄なことなのです。恐山の信仰というのは、集まってくる人々が作っているもので、上から教義や原理を押し付けて出来たものではないということを決して忘れてはいけません。」(119P)。こうした「想い」を受け止める役割を担っている佛道がそこにあるのです。

本書「恐山」の感想も。様々な人が救いを求めて恐山にやってくる姿を描いた第一章と最終章には惹かれましたが、ご自身の来歴をクトクドと言い訳がましく綴った第二章と、既成仏教教団への批判ばかりが印象に残ってしまう第四章が勝ってしまって、読後感は決してよろしくなかったのでした。やっぱり南さん本との相性は悪いな、私。

追記
佛道教理の勉強はすこぶる順調です。角川ソフィア文庫「仏教の思想シリーズ」は最大の難関であろう第二巻「存在の分析~アビダルマ」に入りましたが、これまでのところスルスルと染み込むように読み進んでいます。
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