ある在家仏教信者の心意気とサラリーマンな日常
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最近、呼ばれていますか?
最近、呼ばれていますか?

なんでもキリスト教では、召命(しようめい)ということを言うようです。「神様に呼ばれている」という意味ですから、信仰している人にとってこれは大きい問題だろう。一神教ではない仏教ですが、「ご縁」と言われるものも概ね同じものかもしれません。個別にはもう忘れてしまいましたが、私にも40歳を過ぎて佛道に再邂逅した際には「何かに呼ばれている」という感覚が確かにありました。現代の日本で「私は呼ばれている」ことを積極的にカミングアウトすれば大概の人は引いてしまうだろう、くらいの冷静さもまだありますので、こうしたことはこの匿名のブログでしか書きませんが。しかし、この「呼ばれている感」もなかなかのクセ者です。「呼ばれている」と感じることは即ち「聖なるものに選ばれた」という『エリート意識』を惹起するものです。「呼ばれている安心感・優越感」に安住してはいけない。

大乗仏教では衆生のために実践することを課せられた「六波羅密」(ろくはらみつ)というものがあります。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つで、詳しい説明は今回はしませんが、肝心なことは「 呼ばれたことには感謝する。そしてそれを衆生のために生かす」態度だろうと理解しています。「阿弥陀仏の西方浄土(極楽)に往生する」ことを目指している浄土系仏教でも「その極楽浄土から戻ってきて衆生を救いなさい」という教えがあるそうです。「往きっ放しではいけないョ」、そう説く姿は尊いものだと思います。
ガンダム大仏を参拝
ガンダム大仏を参拝

お台場にできた「ダイバーシティ東京プラザ」で実物大ガンダムを「参拝」してきました。そう、人間の形をした巨大像を見上げる際に受ける迫力と、そこにあるなんとも言えない静謐さは、まさに大仏そのものです。人々が遠方から続々と訪れる行為も「参拝」と同じ。大仏さまと違うのは、人々が合掌礼拝する代りにデジカメや携帯で御本尊を撮影しているところでしょうか。

人形というものを前にすると、どうしてもそこに"魂"を仮託してしまうもの。じっと見ていると今にもガンダム大仏がノソリと動き出しそうな錯覚もおぼえます。そういえば「奈良の大仏さまは夜ごとに歩いている」という、明らかにウソっぽくて可愛い"都市伝説"がありますが、これも大仏さまを仰ぎ見ているうちに"魂"を投入してしまった昔の人の実感から生まれたのでしょうね。

<追記>
オープン4日目とあって、ダイバーシティ東京プラザの混雑ぶりはかなりのもの。2階では真直ぐ歩くこともできませんでした。次男と「ガンダムフロント東京」の有料エリアに入場しましたが、それ以外の場所では一銭も使うことなく帰ってきました。まあ最近は「欲しいモノ」なんて殆どないから、アタリマエですが。お土産は人酔いでのグッタとリした疲労だけでした。

恐山の佛道
恐山の佛道

南直哉「恐山」を読みました。私が恐山に行ったのは中学校の修学旅行。旅程は東北を周遊するものでしたが、仏教系ではない普通の東京の私立中学校がわざわざ下北半島のあんなところまで足を伸ばすとは、今思い返してもなんとも不思議な企画だったものです。しかしこの修学旅行で断トツの思い出になっているのは十和田湖の紅葉と、やはりこの恐山。実にいい経験だったと感謝しています。

著者の南直哉さんは禅宗系の僧侶作家さん。今の人気ぶりは臨済宗の玄侑宗久さんと双璧と言えるでしょう。しかし、著作のあまりに理屈っぽい印象から、私はこれまで南さんのいい読者ではなかったのでした。宗派は曹洞宗、あの道元の永平寺で20年も修行され、今は恐山の菩提寺の住職代理ということです。南さんも書いているのですが、「只管打坐」の曹洞宗と「霊場・恐山」は、仏教界でも対極にあると言える存在。これが結びついちゃっているところが、仏教の懐の深さでもあり、悪く言えば融通無碍でいい加減なところかもしれない(この本によると、一時荒廃した恐山を復興したのが曹洞宗の僧侶だった、ということらしい)

30年以上も前に1回訪れただけの私ですが、この本で恐山は今でも多くの参拝者を集めていると知りました。理由の考察などは本書に詳しいところで簡単にまとめられませんが、多くの人が「そこへ行けば亡くなった人と会える、そして供養ができる」と信じているなら、これは途轍もなく素晴らしいこと。もちろんそこには佛道の存在が欠かせないのでしょうが、やはり恐山の魅力はそれだけではないようです。本書でも南さんが指摘します。「いずれにせよ、恐山という場所を人為的に仕切る、というのは全く無駄なことなのです。恐山の信仰というのは、集まってくる人々が作っているもので、上から教義や原理を押し付けて出来たものではないということを決して忘れてはいけません。」(119P)。こうした「想い」を受け止める役割を担っている佛道がそこにあるのです。

本書「恐山」の感想も。様々な人が救いを求めて恐山にやってくる姿を描いた第一章と最終章には惹かれましたが、ご自身の来歴をクトクドと言い訳がましく綴った第二章と、既成仏教教団への批判ばかりが印象に残ってしまう第四章が勝ってしまって、読後感は決してよろしくなかったのでした。やっぱり南さん本との相性は悪いな、私。

追記
佛道教理の勉強はすこぶる順調です。角川ソフィア文庫「仏教の思想シリーズ」は最大の難関であろう第二巻「存在の分析~アビダルマ」に入りましたが、これまでのところスルスルと染み込むように読み進んでいます。
パソコンと人間の幸せな接点
パソコンと人間の幸せな接点

iPadのお話です。iPhone持ちの私がiPad 2を買ったのは今年の1月でした。もちろんその時点で世間では「次世代iPadがいつ発売されるか」の話題でもちきりだったわけですが(3月に発売されました)、我が家のPC設置部屋には暖房がなく、今年の寒さの下でのPC環境のつらさに家族一同が音を上げ、待ちきれずにリビングで使える機器の導入になった次第です。使ってみたiPad、やはりアップルの人気製品です、その便利さ・快適さ・手軽さは予想以上で、PCはわざわざ「立ち上げる」ことが億劫になってほとんど使わなくなったほどです。

WEBサーフィンには何の問題もないiPadですが、弱点は入力インターフェイスかもしれません。画面上に現われるキーボードはなかなか打ちにくく、長文の入力には向いていない。自宅でのブログ記事の下書きは専らiPhone と外付けキーボードで行っていました。そして知ったのが「7notes」という文書入力アプリです。最大の特徴は、画面上に手書きした文字を丁寧に認識してテキストに変換してくれる機能で、使ってみるとその賢さには感動すら覚えます。この手書き入力は指でも出来るのですが、やってみると指というものは力を入れていないとフニャフニャしてしまうもので、これはそこそこ疲れて、とても「快適」とはならない。そこでタッチペンの登場となりました。入力のスピード感(思考の迅速な文字化)ではキーボードに一歩ゆずるところですが、iPad画面の大きさと手書きのゆったり感は下書きの推敲と手直しにマッチするようです。なにより、激しくのたうつ私の文字を拾ってケナゲに変換してくれるソフトはまるで中に人がいるかのようで、お付き合いするのが楽しいのです。会社でのメモを全てこの組合せにして紙に取って代わるところまでになれば、自分専用のiPadを買ってもいいかな、とまで思い始めました。

7notesのこのすぐれたインターフェイスは、PC系機器と人間の未来のひとつのスタンダードになるかもしれません。少なくともキーボードというだけでアレルギー反応を起してしまう世代には福音となるのではないか。お、「福音」ってキリスト教方面から来たのかな、いい言葉だなァ。
(この記事は全編7notesで書きました)

付記
初代タッチペンはJot Proでした。当初は文字の汚なさとペンへの慣れの問題もありましたが、使っているうちに手がコツをつかむのか、文字の認識率がグングン上昇してきてストレスが軽減されてきました。しかし、このJot Proは極細のペン先が特徴ですが、その硬さがアダとなり記入時のコツコツ音がかなり気になってくる。そこで7 notes を開発した会社のスタイラスペンを購入、先ほどから使っています。これまでのところ大変軽快です。


佐々木閑先生へのラブレター
佐々木閑先生へのラブレター

「中央公論」5月号の特集は「宗教は日本を救うか」。特に面白かったのが佐々木閑氏と佐倉統氏の対談「輪廻の説と進化論」でした。佐々木さんは京都・花園大学(禅宗系)の教授で、私は名著「日々是修行」の新聞連載当時からの大ファン、このブログのタイトルもそこからパクらせていただいております。というか、ブログの存在自体がパクリなのかもしれない、それほどお慕いしております。

とにかくおっしゃることがいちいちカッコイイのですよ、佐々木氏は。「人の偉さは、一時の華々しさでなく、日々の誠実さを一ずつ積み上げていく、その確固とした道程に現われるのである。」(日々是修行84ページ)、シビレちゃいます。写真で見るお髭のお顔もダンディ、去年はNHKで原始仏教の基本的経典「ダンマパダ」の解説もされていました。

「中央公論」ではこんな発言も。「人間には、聖なる場所、空間が必要でしょう。宗教は科学と違って正否がはっきりしませんが、私は人の一生を支える杖になるものであれば、その中身がどういうものであろうと、その宗教は良い宗教だと思っています。もちろん、その人にとって、という限定が必要ですが。」「ただ、こういうことも言えます。一人の人間が生まれてから死ぬまで、一つの宗教で通さなければならないとは誰も決めていない、ということです。だから、その人の、その時の状況に応じて、支える杖になるものが変わっていくのは当たり前だと思います。」

そう、人にはそれぞれにふさわしい杖があるし、それが本人の中で変遷するのは当たり前なのかもしれません。そして、宗教に限らずカネ・出世・名誉といった世俗の"尺度"も「杖」としての役割では同一の地平にいる。どれも一概に否定できないし、ひとつだけに執着する生き方はどうにも貧しい気がするのです。この気づきを佐々木先生から教えられました。

それにしても、「日々是修行」の続編は出されないのですか、佐々木先生?

<追記>
5月に東京で開かれる佐々木先生ご出席のイベントをwebで発見、申し込みました。初めてお会いできることになりそう、ワクワクしております。
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